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太閤秀吉と花岡

当時本往還の通っていた花岡へ、豊臣秀吉は何度も往来しています。花岡は山陽道の要衝として、又中世に入ってからは、八幡宮の門前町とし て繁栄した宿駅でした。

天正十四年(一五八六)島津討伐のため、秀吉は大阪を出発して九州に向かう途次、三月十九日岩国の永興寺、二十日に呼坂、二十一 日に富田と花岡を経由しています。

又六年後の天正二十年三月二十六日朝鮮出兵のため京都を発ち名護屋に向かっています。山陽道を西に下った秀吉は、四月 十一日広島着、毛利氏の歓迎を受け数日滞在、同十五日に広島を発って玖珂郡の高森に、泊、次の十六日には花岡に到着して一泊しています。この折、輝元は井 原元尚を遣わし、充分な準備のもと歓待をしたことが「毛利輝元卿伝」に収録されています。

九州、名護屋からの帰路は天神国府を経て、再度花岡に宿泊し、 玖珂に向かっています。このような天下人の往来、又朝鮮出兵の兵器や食糧、なぜか秀吉は陸路を利用していて、その混雑ぶりが目に見えるようです。関白豊臣 秀次は花岡奉行に宛て、京大阪より名護屋までの次馬次夫(宿駅の人や馬)について掟書を出しています。これは現在文化財に指定され、花岡八幡宮で容易に拝 見することが出来るので、ぜひご覧下さい。

会長 河村蒸一郎