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約75年前、少年時代の覚え③(大東亜戦争 昭和16年~20年)

~台湾より東京へ~

昭和17年8月東京の板橋区に台湾より疎開した。

当時の板橋は、周囲に田や畠もある郊外だった。学校の運動場から富士山が見え、大きな建物も少なかった。小学校1年生の遠足が豊島園と、まだのんびりした時でもあった。子供達の洋服や運動靴も徐々に買えなくなってきた。衣料切符が政府から支給され、買うのも制限されはじめ、戦争の影響が出てきた。洋服が手に入らず、毛糸は貴重なものだった。3人の子供の成長に、母は忙しく手編みのセーターを編んでくれていた。そんな物資不足の中、干していた毛糸を夜の間に盗まれ、母は肩を落としていた。

家には木造りの桶風呂もあったが、燃料の薪や石炭も手に入らず、近くのお風呂屋さんに通っていた。風呂屋の前で紙芝居を見、飴を食べるのが楽しみの一つだった。この年シンガポールが陥落したので、学校よりゴム鞠が一個づつ支給された。また加藤隼戦闘機隊長が戦死され、その遺影写真を1枚学校から買った。食糧事情が悪くお米は配給で量も少なく、我家では麦飯は当たり前、農家の友達は銀めし(白米)の弁当を自慢げに拡げていた。私の弁当は通学中に、弁当箱の中で移動するほど量も少なく恥ずかしい思いをした。

坪郷

 

当時の東京地方の風呂

当時の東京地方の風呂