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荷物の運搬は場所が主だった

約75年前、少年時代の覚え⑦(大東亜戦争 昭和16年~20年)

~東京より防府(疎開)

 母と私達子供五人は父親一人を東京に残し、山口県の防府へと向かった。当時の鉄道は蒸気機関車、途中横浜駅で殺気立った人達が乗り込んで来た。昨日横浜に米軍機の空襲があり横浜が丸焼けになったと、大人達が話していた。

 24時間かかりやっと防府市の三田尻駅に着いた。母方の親元での疎開生活が始まった。小学4年生の私は、通学には下駄か草履をはいて通った。ランドセルはなく、本やノート等は風呂敷に包み小脇にかかえ学校に行った。学校の授業の中で、市内の見学があり、行き帰りは裸足で行進させられた。当時は馬車が荷物を運搬していて、道の真ん中に馬糞が重なり合ってあり、よけて歩いていた事を思い出す。昭和20年初夏の夜、徳山地方の空が真っ赤になった。米軍の空襲だった。防府から見た夜空は東京の空襲と同じ赤い空だった。それから間もなく、広島に新型爆弾が落ちたと新聞で見た。原子爆弾だった。大東亜戦争は終わった。

 6歳~9様までの4年間、小さな私は、戦争のあおりを受け生きて来た。衣食住の最低な生活をして来た。こんな経験は子や孫にはして欲しくないが、こんな時代もあったことを、何かの時には思い出して欲しい。

坪郷

下駄や草履で通学していた

下駄や草履で通学していた

荷物の運搬は場所が主だった

荷物の運搬は荷馬車が主だった

当時は蒸気機関車が交通の要だった

当時は蒸気機関車が交通の要だった