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あなたは「いじめの問題」について何を思うか?

ここのところ”いじめ”がよく話題になる。
その中でよく出てくるのが「加害者」と「被害者」という言葉だ。どうも、この言い方に違和感を覚える。これは、何事においても善だ、悪だと安直にはっきりとさせたがる現代社会の一つの表れのように思う。
しかして、その”いじめ”に対して「現代社会の法」が単純に適用され、そして善悪が語られている。はたしてそれでよいものであろうか?と、私の中に小さな疑問が生じて、この”いじめ”の問題にささやかな関心を抱くようになってしまった。

“いじめ”の(誘発)原因

“いじめ”の原因とは何か?
被害者すなわち”いじめられる”側に、“いじめ”を誘発するムードはないか?その例を挙げてみた。※もちろん偏った例である、申し訳ない。

  • 優柔不断、
  • ひ弱さ、
  • 面白味のなさ、
  • 何でもない言動、などなど

言い換えれば、鬱陶(うっとう)しいと感じさせる状態だ。これが本人から発せられている場合、”いじめる”側に感知されて、”いじめ”を誘発するケースがあることは想像できるだろう。あなたにも経験はないか?

“いじめ”の発端 心のゆがみ!

どうも現代の”いじめ”は昔と違い、かなり陰湿なものが多いと感じる。

昔たまに見かけた、強烈な殴り合い。原因は両者の意見が相容れないことにあるが、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)で片付いていた。それは対等にぶつかっていることが前提にあるからだ。その主張を争いあった先には、 きっと和解があると私は信じてきた。かつて、ケンカは子供同士の欲求不満の解消手段、我々の時代の華であった。

しかし最近は、喧嘩なのかどうかも分からない場合が多い。水面下で物事が巧妙に進んでいるものが多く、傷害などで表に出るまで分からない。最悪は、「自殺」という形で表面化してしまうことだ。そう、「手遅れ」なのである。

話は戻るが、”いじめ”の初期は小さな言葉による責めや小さな人格非難が起こる。この初期の嫌がらせに対して、雄々しく抵抗しない、自己主張できない、そんな元気もない、という被害者側の態度に、”いじめの加害者”の心中は極めて苦々しい蔑 (さげす)みと苛立ちが生じていることは想像しやすい。その感情が徐々に”いじめ”のエスカレートにつながっていくという人の心理だ。あなたにも経験はないか?

“いじめの加害者”の心理(心のゆがみ2)

人は今日(こんにち)の平和な社会で可能な限り満たされる社会生活を望むだろう。

しかし、現代社会は複雑だ。現代の子どもたちが置かれている状況とは、自発的に自分がやりたいことに対して自分の能力にあった学習に専念できる状況が手近にない、生き生きと自分らしさを追求できる個性を発揮する場も機会もない、ということだ。

このように、ないない尽くしの状態では、ふつふつとどうしようもない心理的不満が昂じてくる結果 を伴うのである。そんな時、”いじめの加害者”本人の癇(かん)に障る傾向を多分に示す”いじめの被害者”の存在に対して、どうしようもない嫌悪感と不快感を感じるのは仕方ないのかもしれない。あなたにも経験はないか?

いじめられる要素と社会の対応

“いじめの被害者”、いじめられる要素を持つ者は社会的消極性を身に着けたまま成長する場合が多い。そのまま現社会に身をゆだねるわけであるから、社会性という面では大きなハンディを背負ったままである。

世間一般、誰しも、この弱者が将来、抑圧的でネチネチと消極的なスタイルに固定してしまった人間になるのではなかろうかと、一瞬危惧する。しかし、一般世間(教育関係者を含む)は、見て見えぬふり、非修正を決め込む側に、気づかないように振舞っていなかったか。

ところが、この”いじめ”要素を有する現象は、明らかに、簡単に外部から透視できることは周知の通りである。

要するに意識すれば大事に至らない体制をとることができるし、当然、昔々の世間であれば、この種の弱者を救済した筈であるが、現社会にはその手段は存在しない。弱者救済!それどころか、この弱者を扱う態度に、よそよそしさや温かみの少ないところがごく自然に出てくるのが、現社会の仕組みの非情な面であろう。

“いじめ”の加害者は、そんな世間の態度を決して見逃さない。”いじめ”の被害者は(”いじめ”てもいい対象)と暗黙の了解のもとに、公然と迫害されているように見えるのは、私の思い過ごしであろうか。

現社会の”いじめ”の体質

教育業界全体の空気が、自由、快活、現代社会の求めに応じた教育方針を重視すればするほど、不幸なことではあるが、”いじめ”の被害者に対する風当たりはより強くなると考えられる。
“いじめ”をなくそうと!と、“掛け声のみ”の明るい空気作りは、益々、この傾向にそぐわない体質の持ち主、すなわち”いじめの被害者”の増加を助長するのではなかろうかと、危機感を持ってしまう。

“いじめ”の結果と責任

“いじめ”は永久になくならない、いつの時代にも、”いじめの加害者”、”いじめの被害者”は形を変えて存在する。

『“いじめ”は時代の産物であり、”いじめ”は人間の性である』

現代の”いじめ”は、平和で自由すぎる、ある種の贅沢が基底にある。”いじめ”がどんな形をしたとしても、いつの時代でも”いじめ”は悪であろう。

“いじめ”行為の代償は”いじめの加害者”が払うべきである、そう、大きな責任を持たなければならないのは当然の事であろう。

では”いじめの被害者”サイドに問われるべき責任は、皆無なのであろうか?”いじめ”を追って来て、私は大きな疑問を持ってしまった。

それは、”いじめの被害者”を出してしまった家庭に対してである。

”いじめの被害者”本人の鬱陶しさ、うざい、この抑圧的(気に障る)体質が“いじめ”のきっかけになりやすいことは述べたが、この体質を育ててしまった原因の一つには家庭事情に基因する可能性もある。その家庭に存在する、社会的常識、ムード、教育方針、しつけ等々、どこかに気になる部分があるのかもしれない。(しかし、まったくない場合もあるのだ)

“いじめ”の被害者の家庭には酷のようだが、自分の子どもの性質に気を配らないでいることで、知らず知らずのうちに”いじめ”という悪のステージにこどもを上げてしまっている可能性がある、ということだ。この責任について被害者の家庭も、今一度“いじめ”というステージに子供を上げないように注意を払う、真剣に守ってあげる必要があると、私は思うのである。

もちろん“いじめの加害者”を出してしまった家庭の背負うべき責任は大きいだろう。

平成24年9月10日
傾聴聴話会 國分寺 常五郎

加筆文責:この街 片山 晋一

※編集者(片山)より
“いじめ”という出来事に対して必要な対応とは、大人が、その「行動そのもの」に対して善悪を断言してあげる事だ。この”大人が”というところがキーポイントだ。これと並行して、大人たちが一緒になって、いじめの「原因と結果」を真剣に親身になって、やった方・やられた方を交えて話し合うことが、現代社会には必要なことだと思う。もし、大人という定義があいまいになるとすれば、そこに現代社会が抱える多くの社会問題の根源があるように思えてならない。