郷土史に現れた下松市内の初見地名について歴史上の文献、史料を元に古い順に発表された。
生屋(郷)生野屋
延長5年(927)「延喜式(えんぎしき)」法令集50巻、醍醐天皇の命により藤原時平、忠平編集、生屋駅が記載される。延喜式兵部諸国駅傳馬(えきてんま)周防国生屋駅馬廿疋とあって駅家を兼ねる郷である。
笠戸(島)
保延3年(1137)「本朝無題詩」僧 蓮禅七言律詩を詠ず「着二笠戸泊一一吟」に笠戸泊中徐二晩輝一(笠戸の泊に夕映え残る)
鷲頭(庄)
平安末~鎌倉初期 「仁和寺諸堂記」
末武(保)
文治三年二月(1187)「吾妻鏡(あずまかがみ)」
切山(保)
建治三年七月(1277)「上司家文書」
香力(浜)
元享二年七月廿日(1322)「寺社由来」
山田(郷)
貞和三年三月二十一日(1347)(金藤家文書)
白坂山
観応三年二月十九日(1352)「閥閲録(ばっかんろく)」内藤藤時軍忠状
高鹿垣(茶臼山)
正平七年(1352)「萩藩閥閲録」内藤小源太家文書
くた松(下松浦)
応安四年十一月十三日(1371)「道ゆきぶり」九州探題として今川貞世の九州下何の紀行文に住吉明神に歌を詠んで「日のうちに周防のくた松というところにつきぬとかたられし事をふと思い出て待りしほどに」と記す。
宮洲(宮浦州鼻)
元中六年(1389)「鹿苑院西国下向記」
河内(郷)
永享八年(1426)「大島郡屋代島惣鎮守社祭文(さいもん)」
妙見山
応仁元年四月(1467)「大内家壁書」多々良朝臣
豊井(郷・保)
文明十年十月(1478)「正任記」相良正任
青柳浦
文明十八年十月(1486)「大内氏実録十一代」
花岡(はな岡)
天文十九年十二月(1550)「旧地蔵院文書」陶隆房の書状
中市
天文二十一年(1552)「検地打渡坪付帳」に中市の記載あり
瀬戸村
弘治三年八月(1557)「杉七郎左衛門家文書」「慶長五斗検地帳」瀬戸村総高247石(ゴク)9斗(ト)と記す。
温見村
弘治三年八月(1557) 杉松千代丸知行書立に「百五拾石、都濃郡内久米郷、但怒久見、世戸両畑徐之」ある。
大藤谷村
慶長五年(1600) 134石
下谷村
元和三年(1617) 422石
土居(井)
元和三年(1617) 1石九斗二升
大は(庭、場)山
元和三年(1617) 三畝二十歩
来巻村
元和三年(1617) 田二反七畝 4石八斗
くま(曲、熊)
元和三年(1617) 1斗五升
柳
元和三年(1617) 二石二斗六升
古川
こい(恋)の濱 元和三年(1617) 二反四畝 1石九斗
寺迫
元和三年 七畝十歩 八斗一升(1617)
東光寺
元和三年 一反九畝 三石六斗四升(1617)
平田(開作村)
貞享五年 五十町(1688)
大海(呑)丁、大入海
元文五斗(1740) (1740)
御屋敷山 法連寺
寛保元斗(1741)
八軒屋、弐軒屋
寛保元斗(1741)
高洲
明和4年(1767)「徳山藩史」
「西豊井高洲開作石盛、田三町六畝十歩 富四反八畝五歩」
今治