下松歴史研究会の主催で10月8日サルビアホールにて「下松藩の成立と展開、そして幕末、明治維新へ」と題して田中誠二氏(毛利博物館長)の特別講演が行われ、160人が傍聴した。
来年(平成30年)は明治改元から150年になる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原戦の後、毛利輝元は中国地方の7ヶ国から防長2ヶ国に減封され長府と岩国に支藩を設定したが、1617年(元和3年)に次男の毛利日向守就隆(当時16歳)に都濃郡の過半31,473石を分知し「下松藩」を創設した。
下松陣屋(現在の桜町2丁目、下松市役所 裏 切戸川西側の御屋敷山法蓮寺あたり)が建設されたのは14年後の1631年(寛永8年)で、当時は下松御領と云われており就隆は1638年(寛永15年)ここに入ったが年貢や村の替地の問題、また居心地や所柄が悪いと萩本藩と揉めたり、ゴネたりの末、正保2年(1645年)に領地の中心が徳山であったので野上の庄に移り慶安3年(1650年、徳山藩4万石)と改名された。当初の下松藩は未だ将軍に認知されない内証分知であったが下松藩として幕府により正式に認知されたのは寛永11年(1634年)であり、下松藩の時代は30年間となる。萩本藩と徳山藩は同じ毛利でも利害が絡み、いざこざが多かった様だ。
注)下松トピックスの2006年12月号の第一紙面トップ記事で『知っちょるかね下松藩3万2千石!』として紹介している。
今治