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元禄年間に七百石積の船を造った小嶋家

正徳五年(一七一五)に永代名字御免、天保五年(一八三四)には永代年寄格を頂戴した小嶋家は、既に元禄年間七〇〇石積の船を建造しています。この頃の運送は、陸路だと馬一鞍(くら)で米二俵、人力では車力でせいぜい米一俵です。七百石とすれば一七五〇俵の米を一度に運搬することが出来ます。

寛保元年の藩の記録によると、下松浦の船は、いさば船(廻船)と漁船で八五艙、その中で七〇石の廻船が。一艘、他はそれ以下です。

毛利就隆が江戸から帰国して下松、法蓮寺の居館へ入ったのは寛永十五年(一六三八)。その五年後に小嶋惣兵衛は、下松浦諸問屋株御免の奉書を受けていて、その繁栄を伺うことが出来ます。

又これより先、元和六年(一六二〇)には、漁業繁栄のため弁才天社の建立を願い出ていますので、この頃既に下松浦の代表的地位にあったと思われます。

つまり近世に至っての下松浦に於ける漁業は小嶋家による鯖(ボラ)漁の操業により展開発展し、藩から一種の御用商人的特権を有していました。

このような鯔漁の特権も藩府の発行したものであり、時代とともに絶対的なものから崩壊へと進むことになります。

会長 河村蒸一郎