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父親が台湾の方々と(右端)

約75年前、少年時代の覚え⑥(大東亜戦争 昭和16年~20年)

~学童疎開~

 サイパンや硫黄島が玉砕し、東京の空襲も激しくなって来た。このままでは危ないと思い父親が迎えに来た。「お前たちは、お母さんと防府へ疎開してくれ」父親は東京に残る事になった。当時大事なものは郊外の練馬の農家に預けていた。父親と二人で荷車を曳き、取りに行った。その時、サツマ芋を乾燥し粉にし、メリケン粉を混ぜ蒸かした饅頭を御馳走になった。甘くて、旨かった。サツマ芋は今でも好きだ。その帰る途中で夕方より空襲になった。

高射砲の破片が道路に落ちて歩けず、一時防空壕に入った。しばらく行くと我家の方角の空が赤くなっていたので父は私を残し家の方に走っていった。まもなくして、斜め上空より真っ赤な焼夷弾が私の方に飛んで来た。バラバラと火の粉が落ちてきたので、荷車の下にかがんだ。弾は100m先の陸軍病院に命中した。赤い塊となって屋根がふき飛んだ。小学三年生だった。

あたりは真暗な夜、只一人小学生の私、なぜか怖いとは思わなかった。父が駆けつけて来て、家の方は大丈夫だったと語ってくれた。近所のスタルヒン(巨人軍投手)のお母さんに出会った。「坊や、空襲はこわいですね」と声をかけてくれた。

坪郷

父親が台湾の方々と(右端)

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